Adolf庵 亜奴流布の残日録

Adolf庵 亜奴流布の残日録日々の残日録の日記です

「雪が降っていたから・家老(藩主 島津久光)が独裁だから」

 「有馬一族」は本家は戦国大名から九州の外様大名。


  分家が島津家の「有馬家」は幕末の初頭に暴れます。
 一族が滅亡しても、薩摩隼人ととして、自分の思想を曲げない。


「桜田門外の変」
 

 井伊直弼



 結局、藩に「尊王攘夷」を説くが失敗、水戸浪士が襲撃をする。(ほぼ全員死亡)
 雪が降り、襲撃側の二倍居た「井伊直弼」の馬周りの藩士が刀が抜けないのと、雨具が邪魔なので、死傷者がたくさん出ていた。
  普通の襲撃なら全員、討ち取られるはずなのに。
 腕の劣る浪士に斬られる。


 「井伊直弼」は回転拳銃S&Wで籠を撃たれて即死していた。


 ★馬廻 馬廻(うままわり)は、騎馬の武士で、大将の馬の周囲(廻り)に付き添って護衛で武術の優れた武士の役職、合戦の時は本陣を守る侍。世襲制でなく、剣術が無いとなれない。政治には関われない、俸禄は普通の藩士の三倍はあった。


「有馬新七」今度は「孝明天皇」の討幕の密勅で薩摩藩単独の討幕に動き始める。
 しかし、薩摩藩は「公武合体」の佐幕派になっていた。


 
 国父・家老「島津久光」(先代の島津斉彬から久光の息子 島津忠義の後見人)

 激怒、鎮撫役を「精忠組」に「同じ釜の飯を食べた者」を選んで、伏見の「寺田屋」に送るのです。



寺田屋事件 篤姬


「君命に逆らえない悲劇 頑固な薩摩隼人の幕末最大の悲劇。」


 


 激動の時代、長州藩は財政改革の成功で「日本一豊かな藩」になって、幕府の経済力の三分の二まで36万石が260万石近い経済力を持って、貧困の「加賀前田100万石」を凌駕していました、これが、明治維新への資金力の強さです。



 藩主「毛利敬親」公は長州が外国と幕府と戦えるように富国強兵と、殖産産業と米作や塩田を作り。
 改革派に「やらせる」政治をして、「村田清風」の天保の大改革を行う。


 「防長大一揆」を乗り越え、日本一豊かな藩を目指す。


 「防長一揆」の発端は、「農民の部落差別」から始まったので、今度話します。


 山口県は気候が良く、災害が少ない、台風はよく来るが、遠浅の瀬戸内の温暖、山は高原で青森のような場所、日本海側は冬は寒くて夏は温暖。
「学歴」「男女」「障害者」「部落」がなければいい県なのですが。


 改革では外国船の来航と中国でのアヘン戦争などの情報で攘夷の海防も行う一方、藩庁が公認で竹島などでの密貿易で巨万の富を得た。
「坪井九右衛門、椋梨藤太、周布政之助」などが改革をけん引するが、坪井、椋梨と周布は対立するのを見て、「敬親公」は藩政を中立で、藩内の特に下級士層に支持された周布政之助が安政の改革を主導し、慕われた、「吉田松陰 先生」が現れる。


 でも、「こういう変わり者が現れます。」



【写真あり】もはや漫画。27歳で亡くなった高杉晋作の生涯が恰好良すぎる【幕末】


「破天荒・イケメン・動くこと雷電の如し・狂気」